横浜市議会議員 おぎわら隆宏

 

おぎわらモーニング

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Vol.3

日本の多様性と地方分権②

自己決定について

地方自治の意義に三つあると前号で申し述べました。
①自己決定②中央の監視③多様性の確保、です。
自己決定の担保は、民主主義の根幹です。
自分の生活に関わることを、知らない所で誰かに決められ、誰かの考えだけで世の中のルールを決められ、自分自身に害が及んだり、社会に害が及んだりすれば、こんな社会はおかしいと感じると思います。
そのとき、社会のルールを変える権利を持っているということ。
それが自治の意義で、より多くの人々がこの権利を保持することが出来る社会にすることが、民主主義の挑戦です。
では、自分達で社会のあり様を決めていくために具体的にどうすればいいか。その回答として、いま日本は、議会制民主主義を採用しています。欧米で発明され発達した社会運営のひとつの方法です。
選挙で代理人(議員)を選んで、その人たちが集まって物事を決める。
しかし実際は、選ばれたからと言って、全権委任ということではありません。
特に、世界の地方自治においては、住民が直接投票して物事を決めるレファレンダム(住民投票)の仕組みも発達し、選挙された人間がオールマイテイ(万能)に社会を動かすのではない、より多くの住民の納得を得る政策決定を行えるように、選挙によってもたらされる不完全な側面を補おうと、多くの工夫と努力が施されています。
いま、日本の地方自治は憲法と地方自治法等に沿って展開されていますが、制度的な選択肢がまずたいへん乏しいと言わざるを得ず、人口二百人規模の小さな村から、三百万人を超えるような大きな都市まで、ほぼ同じ制度の中で自治体を運営することを余議なくされているのが実情です。
特に、誰に、どのような権限を与えるかを決める「地方政府の形態」については、日本の場合、首長の権限が議会よりも強い「強首長型」二元代表制と呼ばれる制度が全国一律で展開されています。
誰に、どのような権限を与えるか、つまり地方政府の形態の決定は、まさに自己決定の最も大切なポイントです。
本来は、地方自治のあるべき姿を高く追求すれば、この権限付与の権限そのものは、住民が持つべき地方自治を展開しなければなりません。住民自身がその地域で運営しやすい制度を、ゼロベースから自分達で構築出来ることが、民主主義国家として理想的なあり方だろうと私は思います。 現在の日本の地方自治は、この部分が未だ大きく欠けたまま大変画一的に展開されているのです。

全国一律の自治を変える

予算編成権が地方議会にないこと、議案提出権が首長側にも認められている事など、日本の地方政府の形態の定めは、まず憲法によって二元代表制(首長と議会をそれぞれ別個に直接選挙する)が規定され、次に地方自治法によって、首長と議会の権限配分が全国一律に同じ内容で行われるよう定められています。
しかし、この一律に定められた同じ内容の地方制度が、全国のすべての地方自治体にとってもっとも適切だと本当に言い切れる完璧な制度なのかどうか、けしてそのようには言えないのではないか、という疑問があるわけです。
地方政府の権力の発揮と抑制のあり方には、自治体の規模や状況によって様々な形が考えられます。
そして、どのような政府の形を整えるかは、本来、試行錯誤を行うことも含めて、その地域に生きる住民の皆さんの自由に委ねられるべきことではないか、それこそが憲法にも定める「地方自治の本旨」が要請するところではないか、と思うのです。
欧米諸国は、この住民の自由をより多く確保するために、様々な地方制度改革に国政自らが着手し、試行錯誤を繰り返しながらも、民主主義を進化させる努力を、たゆまなく続けています。
国政に依存することのない、自己の良心と責任に依って社会を保つ力強い強固なる地方自治を獲得するために、国際社会に展開されている地方自治の多くの有為な事例を学んで、国政によって束縛している我が国地方自治の不完全かつ不自由な側面を取り払っていくべきと強く思います。

様々な地方政府のかたち

世界を見渡せば、実に様々な地方自治政府の形態があります。
良く知られているのが、シティマネージャー制や議院内閣制、公選首長制(二元代表制)、そして同じ公選首長制においても、弱首長型(議会の権限が強い)と強首長型(首長の権限が強い)とに分かれるなど、絶対こうでなければならない、という政府形態は、実際にはありません。 小さい規模の自治体であれば、お金の使い方や政策の決定はより小回りが利きます。それぞれの市町村の歴史・風土など、様々な事情を勘案して政策や予算等の決定方法そのものを自由に決める事が出来れば、より地方自治を実感し、その充実度を高めて、“強固なる地方自治”への歩みが進められるのではないかと私は考えています。
地方自治における自己決定のあり方に関しては、数年前に我が国においても英国のように住民が直接住民投票によって地方政府形態を選択出来るように改革が進められようとした時がありましたが、未だ道半ばです。地方の予算の決め方や、地方政治家(首長と議員)に対する責任の問い方(選挙制度そのものを含めて)は、国の法律で画一的に全国一律に縛るのではなく、その地域に暮らす住民自身によって決める事が出来る、まさに自己の良心と責任に基づく地方制度を日本にもたらしたい、これが私の思いです。

中央の政党と地方の関係

国政政党の政争を、暮らしに身近な地方政治にまで不必要に持ち込むことは政治の奢りであって、やってはならないことです。
一方で、地方政治に浸透する国政政党を確保しなければ確固とした政党政治が我が国で展開し難いことも事実です。
実際には、日本の地方政治では、政党を意識することが少ないかと思います。
これには良い面もあり、悪い面もあります。
良い面は政争が起きない、悪い面は政策競走が生じない、ということです。
そこに制度上の課題の核心があると私は考えています。
日本の現在の地方議会には、政権交代がありません。
議席を過半数獲得したからといって、「政権」が与えられるわけではないからです。
現在の日本の地方の政治制度は、アメリカ大統領制と同じく、立法府(議会)と行政府(大統領)をしっかり分離しよう(三権分立)という制度です。だから、それぞれ別々に選挙します。大統領はたった一人選挙で選ばれるので、大変大きな民主的信任を得ます。したがって、この一人の政治家に大きな権力を与え過ぎないように、議会が存在し、大統領の暴走が生じないよう「チェック機関」と言われるような役割を議会が果たすわけです。
ところが、強いと言われているアメリカの大統領には、予算編成権がありません。
米国の場合、予算編成を行うのは連邦議会の権限です。
予算編成権とは、税金の使い道を決める予算の編成作業を行う権限のことです。 事例で分りやすいのは、「事業仕分け」です。これはやる、これはやらない、と予算の配分をしていく作業そのものを予算編成と言います。日本の地方議会では、この予算編成作業を首長以下行政(市役所や県庁)が十二月頃を目途に終わらせ、年が明けると、議会への説明作業に入って、三月の議会採決で予算を確定します。
米国の大統領の場合は、日本の首長のように直接予算編成に加わることは出来ず、「教書」というメッセージで議会に自らの方針を訴え、議会に予算を依頼する事になります。また、米国大統領には議案提出権も与えられていません。大統領がいるにも関わらず米国の連邦議会の存在感が大きいのは、この税金の使途を編成する予算編成権、そしてさらに、立法の為の議案提出権も連邦議会にのみ付与されていることが大きな理由と言えます。議会において、仲間の党が過半数を獲得しているかどうかは、米国大統領にとって大変大きな意味を持ちます。 日本の地方議会の場合は、予算編成権は、首長だけが持っており、議会には与えられていません。さらに、日本の首長は議案提出権も持っていて、承認を得るために立法の為の議案を議会に諮ることも出来ます。「強首長型」二元代表制と言われる所以はここにあります。
そして、日本の地方議会に政権交代がないのは、予算編成権が議会には与えられておらず、税金の使い道に関する責任を議会に追及出来るシステムが十分に整っていないことに起因しています。これは、自治体の予算や人口の規模によって、その権限のあり方が最も問われる部分でもあり、地方のあり方に多様性が確保されるべきだと私が考えておりますのも、地方の税金の使途決定における民主主義を深めるため必要な方策だと捉えているからです。
地方議員の選挙においては、政策競走による政権選択のシステムとなっていないことから、自然と実質的に政策選択の選挙となり得る首長選挙に関心が集まりますが、この首長選挙については、全国的に無所属候補を名乗る事が常態化しており、ほぼどの自治体においても首長は表向き政党色が消されています。 地方議会に政権交代がなく、首長はおしなべて皆無所属となる我が国の地方自治においては、政党政治が責任を取る素地そのものが失われていて、この事は政争が起き難い良い面が見られる一方で、政策責任を問う事が難しいだけに、健全な政党政治が地方に浸透せず、我が国全体の政党政治の醸成に少なからず影響を与えていると考えております。
次号に続く

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