無所属 衆議院候補 おぎわら隆宏

 

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専守防衛

憲法9条と集団的自衛権の議論については、これからの時代は、政争に利用されやすい右や左のイデオロギーで考えることを控え、国民生活の立場に立って、歴史的背景も踏まえつつ広く客観的に考えるべきだと思います。憲法の成り立ちについても、もう「生まれ」を問うよりも、「歩み」を問うべきだと私は思います。70年間の平和の重みは私達の先達の努力の結晶であって、私はこれをないがしろにするべきでないと思います。米国との関係における生まれを云々するよりも、この70年共に歩んだ道程の方がはるかに重たい意味を持つと思っていますし、今を生きる私達にとって、どのような存在なのかが一番問われるべきではないでしょうか。憲法は何のためにあるのか、集団的自衛権は日本にとってどのような意味を持つのか、地に足を付けた議論を焦らずに行うことが大事だと考えます。

憲法と国民 9条の意味

我が国の憲法9条の最大の特徴は、「次に、どうしても集団的自衛権を伴う武力行使を行う際は、国民が憲法改正したうえで行う」という側面があることです。つまり日本は、集団的自衛権発動のスイッチボタンを、多くの国のように政治家が持っているのではなく、国民が持っているというところに特徴があるのです。本年7月1日の集団的自衛権行使容認を決めた閣議決定は、このスイッチボタンが国民の手から政治家の手に渡ってしまったことを意味します。
憲法は、国民の財産です。
民主主義の国の憲法は、主(あるじ)である国民が、その僕(しもべ)である政治家に対して、仕事内容を指示する指示命令書です。

議会はこういう仕事、内閣はこういう仕事をしなさいと書いてあるわけです。
その指示命令を受ける立場の政治家が、主に伺うことなく、勝手に指示命令の中味を変えて行く事が許されてはいけない。指示命令の中味を変えることが出来るのは、主である国民だけです。とくに、集団的自衛権のように憲法の根幹と国是に関わるような重要な解釈変更であれば、しっかり憲法改正の手続きに適う方法を選択する事が、最低限の政治家としての慎みであると私は思います。
たとえ現在、法的に問題ないと行政が判断したとしても、政治家として民主主義の理念に照らし、国民にしっかり信を問うべき事柄だと私は思います。

国民のリスク

日本国民の命を守る自衛権ということであれば、個別的自衛権こそをしっかり追究して自国民の生命・財産を守る工夫整理を進めるべきです。
集団的自衛権を伴わない安全保障はたしかに困難な道です。もともと戦争のない世界への道自体が困難なものであって、日本はこの困難な道をあえて戦後約70年間歩み、国際社会の信頼を取り戻しながら、平和への挑戦を続けてきたわけです。困難から逃げれば楽になる側面があるかも知れませんが、かならず副作用が表れると思います。

限定的な行使だから大丈夫だ、戦争なんかしない、という説明を一生懸命安倍政権はしていますが、本当にそのような保証はあるんでしょうか。集団的自衛権による武力行使は敵・味方をはっきりと作ります。どんなに日本側が「限定的な」武力行使と思っていても、相手はそう取らないかもしれない。あるいは、限定的な武力行使で他国軍を守った場合、いつ撤退すれば良いのかそのタイミングをどのように決めるのか。極めて先の読めない限定性だと思います。限定的な武力行使が、タイミングを失って撤退出来ず、本格的な武力行使に繋がるリスクは常にあると考えるべきです。集団的自衛権はゼロか100かであり、限定的な集団的自衛権というものは現実的でないという考えの下、我が国は一生懸命集団的自衛権を使わずにやってきたのだと思います。すべては、国民生活の安全と安定のための良識の成した政策だったと私は思っています。
そして、集団的自衛権が本当に抑止力に繋がるのかどうかも疑問です。隣国との緊張関係がどのように解決されていくのか、現政権の方向のままでは未知数です。
また、財政の心配も考える必要があります。安倍政権は毎年1000億円規模で防衛費を上げています。安倍政権以前10年間少しずつ削減してきた防衛費を、安倍政権は3年目の予算で一気に取り戻してしまいました。集団的自衛権を使うということになれば、当然自衛隊員の命を今まで以上にしっかり守る重装備が必要ですし、なによりあらゆる攻撃に耐え得る装備を整えなければなりません。集団的自衛権によって予算が膨らむことはないと安倍政権は説明していますが、予算の膨張無しに集団的自衛権の行使容認というのは考えにくいのではないかと私は思います。消費税の増税をお願いしなければならない財政状況のなかで、今本当に差し迫った政策であるのかどうか、立ち止まって考えるべきと私は思います。