横浜市議会議員 おぎわら隆宏

 

おぎわらモーニング

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Vol.1

政党ってなに?

考えてみればいったいなぜ、政党というものがあるのでしょうか。政党があるから、一人一人の政治家が本当はそうすべきではないと思っている事でも、大御所・大幹部の言う事に逆らえず執行部で決またことが予定調和で進められていく、企業・団体との癒着も断ち切れない、結局政党の存在そのものが、政界を汚しているのではないか?と考える方も少なくないのではないかと思います。
それでは、政党を無くしたら、どのような世界になるのでしょうか。
政党がなくなると、首相の選出に国民の意思が反映されにくくなる事態がまず予想されます。日本の国政は議院内閣制ですから、議会が首相を選出しますが、この首相を選出するにあたって、国民の意思を反映する形で選出するように、総選挙で党首対決の構図を作って、あらかじめ国民に選んでもらう、というのが議院内閣制の母国イギリスの流儀です。魅力的な党首を生み出せない政党は負けとなります。
いかに、国民の意思を反映させるかに腐心することが重要であって、いかに政治家の思惑を実現させるかに腐心してはいけないのは言うまでもありません。
政党が無くなれば、極めて有力な議員が議会の過半数を掌握して首相誕生、ということになるでしょうが、これは、政党の黎明でもあります。リーダーを決めて行く過程そのものが、政党の歴史なのかも知れません。この首相を、国民の投票によって直接選べば、ほぼ大統領制となります(公選首長)。

ハイクオリティな民主主義を日本に

政党政治は、オールマイティでもなければ手放しで完璧な制度というわけではありません。政党はチームとして連帯責任を負いますから、選挙のたびに、いい政治家も落選することがありますし、反対に無能な政治家が当選することもあります。けして、バラ色の政治制度ではありません。しかし、大きな犠牲を生んだ世界大戦を経た国際社会は、一人の政治家やひとつの政党に権力を与えすぎて国家を翻弄させることがあれば、それは国際社会をも危機に巻き込む恐れがあるということを十分に学習しました。そのために、現在の国際社会は民主主義が広まる中で、国民の意思をいかに社会に反映するかという努力を重ねているわけです。我が国も、その努力を続ける必要があります。
日本は、政党政治が弱体化した結果、軍部の台頭を許し、世界大戦に突入していた歴史があります。この反省からも、政党政治は無くてはならないものです。しかし、政党マネジメントがまずいせいで、どんなにいい政治家を選挙区で選んでも、結果として良い方向に政治が進まないジレンマを多くの国民が感じているのも事実かと思います。これからは、政党がいかに国民の思うところを汲みとって意思決定が出来るかが重要であり、政治家の政策自己実現よりも、国民の人生の自己実現をいかに支える事が出来るかどうかが、政党の存在意義に繋がっていくと私は思います。そして、とりもなおさず、それは、地方政治と国政との連動性にも関わる話でもあります。

国と地方の制度は180度違う

議院内閣制の国政と違って日本の地方政治は二元代表制(大統領制)です。地方議会でも会派が存在しますが、日本の地方議会は、政党政治が定着していると言えるのは、都道府県議会と大都市の市議会などで、実は、全国の8割の市町村議会は、会派制を採用していません。賛否は議員個人が自由に決めるということで、党議拘束もありません。政党もなく、会派も無く、議員個人の判断を尊重する形です。
同じく大統領制を布くアメリカ連邦議会には党議拘束はほぼ存在しません。政党の思惑よりも議員個人の判断が大きく尊重されます。そのことで、直接選挙され絶大な民主的権威を持つ大統領の権力を抑制しています。
これが、公選首長制の一番大事なところで、大統領制の下での議会は、党議拘束が無い方が、首長に対する権力抑制効果を発揮しやすいために、党議拘束がありません。
しかし、日本の地方議会は国政の議院内閣制を混同して会派拘束(党議拘束)を極めて律儀に守ろうとしています。本来、党議拘束は、議院内閣制の手法なのです。したがって、現在の地方議会の多くでは、地方議会の権能が十分に発揮出来ていない状況が見受けられるわけです。
その逆もしかりです。
国政では、首長を直接選挙出来ませんが、それは、議院内閣制を採用しているからで、さらに、党議拘束があるのも、与党がチームとして責任を負い内閣を形成して国政にあたっているからです。
日本の政治の分かりにくさは、地方と国政の政治体制が180度違っていることも一つ大きな原因だと考えています。
アメリカでは議員個人が尊重される議会ですが、しかしそれでも、政党が消えてなくなることもありませんし、何度も政権交代があっても共和党と民主党の二大政党が長く維持されています。これはなぜでしょうか。
ひとつには、米国は民主党共和党ともに党員数が膨大で日本とは比較にならないくらい国民政党として定着していることがあるでしょう。そのような状況であれば、政治家もおいそれと政党を変えることが出来なくなります。したがって政党も衰弱すること無く、長く維持されるということに繋がります。
ひるがえって、制度は公選首長制で同じだけれども、日本の地方が大きく違っているのは、米国の州や大都市の首長は所属政党を明確にしますが、日本の場合、首長は皆そろって無所属にしていることです。これは、異なる政党会派で構成される議会過半数の勢力を味方とするために、首長は無所属でいるほうが都合良いためにそうなります。
今までの国政は、永田町も霞ヶ関も、中央集権的に「地方は従えるもの」と考えていたと思います。これが高度成長期後の我が国の第一の蹉跌です。国政は地方を従えるのではなく、地方の自己実現を支えることに大きな意義があります。
そして、それと同じように、国民・住民の自己実現を支えるための国政であって、政治家の自己実現のために国政があるのではないことを強く再認識しなければ、国民による国民のための政治はいつまでたっても日本に確立できないと考えなければなりません。

政党政治には掟がある

ある海外の市議に教わりました。
それは、政治家の心得でもあります。
「政治家は自分の信念に基づいて判断するが、その自分の思いよりも政党の思いを優先しなければならない。それが政党政治の前提でもある。そしてさらに重要なのは、政党の思いよりも、国民の思いを優先しなければならない、ということだ」
日本の政治家がけして忘れてはならない至言と今も思っています。
政治家が私利私欲に走らないように政党があり、政党が党利党略走らないように、国民の審判である選挙がある。民主主義の要諦です。

政党は、国民の財産

政党は、長い年月を経て、水をやり、こやしをあてて育てる、国民と政治家の間の信頼に拠って立つ「暮らしを支える国民的装置」であるべきです。何よりもまず政治家自身が、不断の努力によって、政党政治の健全な育成に心血を注がなければなりません。
そして、政党政治は政治家のものではなく、国民のものであるということを政治家自身がわきまえなければなりません。政治家の都合による離合集散によって、生まれたり消えたりを繰り返していては、政党が国民の財産になりえないからです。政党は、暮らしを良くするための国民の財産であり、また、そのように国民から信頼を寄せられる政党を作るよう、政治家は努力すべきです。
政党は、政治家のものではなく、国民のものです。
世界の多くの民主国家は、政権交代可能な政党政治を保持しています。それが国際標準であるとも言えます。我が国に、国際標準にかなう確かな政党政治を確立することが、将来世代への何よりの贈り物であると思います。
いつも、どこでも、無我無心。
荻原隆宏

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