おぎわら隆宏
 
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勤労感謝の日に。

この樹は、先週末の晴れた日に、用事先に向かう途中に野毛山公園を通り、佐久間象山の記念碑があるとそのとき初めて知り立ち寄った、その脇にそびえていた樹があまりに立派で撮ったものです。

 

野毛山は、横浜開港と同時に、東海道と横浜港を結ぶための横浜道を敷設する際に、山を削って切通しを開かれた小高い山で(その名残が麓にそって伸びる戸部町から日ノ出町に上り下る道路)、横浜港の近隣では、麓に降りると本牧ふ頭へと続く中区の山手地区(西洋館があり外人墓地・米軍根岸住宅地区等がある高台)と、ちょうどこのふたつの高台が、2頭の狛犬が横浜港を挟み見守っているような地形です。中央図書館と市長公邸を左に見ながら野毛山を上っていくと、野毛山公園と野毛山動物園に辿り着き、たいへん見晴らしの良い空間が広がります。

 

この辿り着いた山頂に、野毛山公園と野毛山動物園を結ぶために架けられた「野毛のつり橋」と呼ばれる歩道橋があります。この橋からは、横浜の市街地のはるか西の向こうに富士山が見え、左に箱根の山、右に丹沢山系も見え、この日は夕焼けがことに美しく、肉眼には写真よりはるかに富士山が大きく見え、野毛山の高台に連なる西戸部の家々が夕闇に溶け込み、横浜の絶景のひとつだと思い、これはそのときの写真です。

さて、横浜開港当時にからめ、ということもありますが、外国人の皆さんに日本に来て働いて頂こうという入管法改正案の審議が国会で始まりましたが、その低賃金・低待遇の心配が大きくクローズアップされています。実習生という「労働者」が失踪するほどに安価な賃金を、経営維持のために正当化しなければならないほど日本経済は弱小な状況にあるということであれば、掘り下げるべき問題としては、「低賃金で働かせている」実態を撲滅するべきで、経営維持のため「低賃金労働力を補充する」ことがあってはならないことを、確実に前提において審議が進んでほしいと思います。

 

現状、日本の最低賃金は先進国のなかで最も低いレベルにあります。そして生活コストは高い。英国経済誌エコノミスト調べ(2017年)で東京の生活コストは世界第4位の高さ、大阪は5位、パリは7位、ニューヨークは9位、ロンドンは24位でした。東京の最低賃金は985円、ニューヨークはこの12月で15ドル(約1,600円)。ロンドンはリビングウェイジで約1,500円、フランス国の最低賃金は約1,300円。そして日本国内で最も低い最低賃金は鹿児島県761円。九州・沖縄は福岡県を除いて全県762円です。そしてもうひとつ、米国連邦政府の最低賃金は7.25ドル(約810円)。これは2009年以降改訂されていない額で、米国では自治体(州や市など)ごとにこの額に上乗せして最低賃金が決まります。

 

日本には国が定める最低賃金しかなく、自治体で最低賃金を定めた経験がありません。米国の最低ラインの連邦政府の最低賃金よりも低く、フランスの最低賃金よりも半額近く低い最低賃金額が、はたして日本で働く人々の労働の対価として見合った金額なのかと問われれば、私は「違う」と思うわけです。

 

なぜ日本はこのように賃金が低いのかと、より正確に言えば、低賃金依存から脱却できない社会になってしまっているのかということを、私は問いたいと思うのです。

 

「なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか(邦題)Global Economic History(原題)」 というロバート・C・アレン氏の著書があります(2012年12月に訳本初版が発行)。もう購入してずいぶん経ちますが、たいへん大切なことが書かれているので、私は肌身離さず繰り返し読んできた本です。

 

この本で得られた考え方として重要であったのは、高賃金が豊かさを生み、低賃金が貧しさを生むということでした。豊かだから高賃金、貧しいから低賃金、というわけではないということです。19世紀、高賃金経済の英国では、機械化によってコスト削減を進めようとして産業革命が進んだが、安い労働力で経営が成り立つ国では、コスト改善のための機械化を進めようとはならず、したがって生産性も向上せず、低賃金が持続して貧困も続く、というシンプルかつ厳しい内容が衝撃的でした。

 

著者は、19世紀に入ってから欧米諸国は経済優先の政策を掲げ、次の4つの政策を掲げたと述べています。

①内国関税の廃止と交通インフラの建設による国内市場の統一。

②イギリスとの競争から自国産業を保護するための対外貿易関税の設定。

③通貨を安定させ、産業投資資金を供給するための銀行の設立許可。

④労働力人口の賃金を高めるための大衆教育の実施。

 

そして、日本の明治期の発展は①と④によって獲得されたが、②と③は出来ていなかったと述べています。日本は、産業に投資する銀行制度の確立には明治政府開始から50年ほどかかり、明治期当初からの産業は政府自らがベンチャー資本家として活動した、とあります。つまり公的資金による官営です。また、当時西洋列強と締結した通商条約では、関税率を最高5%までと制限されていたため、国内産業を十分に保護できず、政府調達の方式で政府自ら産業を育成し、鉄道や通信制度を確立した、とあります。

 

つまり、政府が主導してお金を出して事業計画も作り「殖産興業」した、ということですが、その感覚は現在の日本経済にも脈々と流れているのではないかとも思いながら、いっぽう、労働者にとって大切な次のような一文があります。

 

他国に見られない日本の特徴として、「低賃金経済の日本で採算がとれるように西洋の技術を作り変えた」という一文。機械を金属から木製にしたり、蒸気機関ではなく人力にしたりして、安価な労働力を増やし、コストのかかる機械を減らしていたということです。安い労働力の雇用と、機械化によるコスト削減を両立したことで、資本効率を高め、製品価格を下げ、国際競争に勝っていった、というのが著者の見立てです。

 

日本経済は明治の勃興期から政府によって育てられ、それが戦後の行政主導にも繋がるのかもしれないと思いつつ、一方の低賃金についても、すでに明治期に端を発しているのだ、ということが伝わる文章だと思いました。

 

著者の述べる、安価な労働力に依存して経済を組み合立てることは、けして豊かな国づくりに繋がらないということを念頭に置きながら考えると、日本が長らく欧米とは違う「異質な豊かさ」(物質的に豊かでも、何かが豊かになれない)を享受してきたことの背景には、西洋式の「機械化」という発展の方程式を導入しつつ、「安価な労働力」という日本の方程式も維持し、連立方程式でその解を解いてきたけれども、その解は国家保存の意味合いの解であることが多く、ほとんどが国民市民自らの幸福を生み出す解ではなかったのではないか、つまり、低賃金(あるいは長時間労働)という国民市民の懊悩を踏み台にしなければ、企業経営、国家経営が成り立たなかった「仮初めの繁栄」が続いてきたのではないか、と思うのです。

 

その傾向は、バブル崩壊以降のリストラと「聖域なき構造改革」の大波のなかで際立ったのだと思います。正規職員を解雇するだけでは経営維持が出来ないゆえに、低賃金・低待遇の非正規雇用を増やし、その状態を前提にした経営基盤が、この約20年間ですっかり定着してしまったかのように見えますし、特にこの期間、低賃金経営の連鎖のなかで、高度成長を遂げても「何かが豊かではない」と言われ続けてきた「何か」の中味が浮き彫りになってきたのではないかとも感じます。

 

それは具体的な現象としては低賃金を生み、持続させ、許容してしまう経済観を作り出してしまう、つまり、労働への敬意の不在と言うべき、「基本的人権の欠如」ではないかと思うのです。

 

それは日本の国・地方の議会の実態にもつながる話です。

 

まずは、労働力不足や高齢社会・人口減という課題に立ち向かうためにも、低賃金が持続し社会不安が増大する「誰かが豊かになる社会」ではなく、一定の義務を果たせば(例:法定労働時間働く、納税する)人間らしい暮らしが出来る「誰もが豊かな社会」をめざすべきだと私は思うのです。

 

そしてそのために最低限必要なのは、今は横浜の大都会でも、法定労働時間働いても手取りが14万円にも満たないような最低賃金額でありますが、この額を、手取り20万円に到達するレベルまで引き上げていくことだと私は思います。国が一気に引き上げるのが困難であれば、英米のように自治体ごとに最低賃金を定めることを始めてみてはいかがだろうかとも思うのです。それが社会的義務を果たしている労働への敬意であり、人権の保障であり、経済の品格でもあると私は思いますし、人権を削りながら働かなければならない状況を改善しようとする意欲や熱意を社会全体で支えなければ、日本は真の豊かさへのロードマップを、永遠に失ってしまうのではないとも思います。

 

今日は勤労感謝の日。午前8時の横浜の空は、あっぱれなくらいに雲ひとつなく青く澄み渡っています。

 

日々に感謝。

 

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