おぎわら隆宏
 
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厚労省の統計不正

司馬遼太郎の「歴史と視点」という文庫本の中の一文。

 

“国家に責任をもっている専門家とか、その専門家を信用する世間の常識というものほどあやうくもろいものはないということを、大日本帝国というのは国家と国民を噴火口にたたきおとすことによって体験した。”

 

“権力の実際的な中枢にいる者の頭も変になり、変にならねばその要職につくことができない。また要職につけばいっそう変にならねば部内の人気が得られない…あの当時の変な加減というのは狐狸妖怪(こりようかい)が自分で自分をだましつつ踊りまわっているようで、冷静な後世の常識ではとうてい信じがたいことが多いのである。”

 

専門家を信じることが出来ない社会。

自分で自分をだます行政官。

人気とりのために変になる政治家。

 

国民が噴火口にたたき落とされても変われない日本の中枢、あるいは地方の中枢の姿が、今もあります。

 

報道が続々と続いて、ルール違反の調査手法がとられていたうえに、その不正を室長が隠ぺいしていた、という、その問題の根の深さと国の根幹の緩さにあらためて驚きます。

 

この司馬遼太郎の「歴史と視点」は昭和49年に刊行されていますが、日本の中枢は“あやうくもろいもの”で、“自分で自分をだましつつ踊りまわっている”という言葉は、今もまったくそのままあてはまり、空恐ろしい思いが致します。

金沢区称名寺の仁王様。1月初旬に所用あり訪れました。すばらしい木像。人間のおろかさをにらみつけているようです。

 

第二次世界大戦で戦車手として戦った司馬氏は、戦車のことをひときわ詳しく様々な体験記に書いています。戦争末期の日本軍の戦車は「ブリキのような装甲」で、日本は国力の無さから、うすっぺらい戦車を生産し、それを戦地に投入し、日本兵はその徹甲弾を防ぐことの出来ないブリキのような戦車に乗り込み戦った、という、衝撃的な「人命の軽さ」を国家として推奨し「人事をつくして天命を待て」と国民に命を賭けさせたという精神構造は、しかし私は、戦争という過酷極まる状況に比べるわけには当然いきませんが、戦後日本の社会に長く現在に至るまで、日本政治と日本行政の地下深くで鳴動し続けてきたのではないかと、つくづく思うのです。

 

データ補正、隠ぺい、公文書改ざん・破棄。

過労死、長時間労働、低賃金。

保育の困難さ、障がい者の居場所のなさ、高齢者の孤独死、児童虐待。

 

日本が直面しているこれらの闇深い課題の解決のためには、社会正義と国民の命を何より大切にする政府を、中央でも地方でもつくらなければとうていできないことです。

 

日本の政治と行政は、自分たちの都合、自分たちの保身にどうしても傾き、組織防衛のためには正義も冒すというところが多々感じられます。それが隠れてかつ堂々と主流に乗る現実がつまり統計不正などに現れ、どうしてこのようなことになるのか、実際上の法律の不備もあるのでしょうが、しかし根本としては、国民市民が社会の主(あるじ)であるということの自覚が、本格的な民主主義を戦後取り入れたはずの後も、まだ日本政治と行政の脊髄にまで染み至っていないということの表れなのだろうかとも思うのです。 

EU離脱という国家を揺るがすような決定を国民投票で下した英国は、まさに国民が国家の主という理念を体現しており、離脱に伴う巨大な困難を抱えつつも、国民が主として判断する国民投票のシステムそのものを否定する思想が、それでも台頭しないのは、それが民主主義の心臓部であることを国民のコンセンサスとして持っているからだと思います。

 

民主主義は本来、国民市民を政策決定の最高意思決定者としておくのであって、政治家や行政を無敵の状態におくことを許さないものです。社会の最も大事なことを、国民市民が自ら決定するという理念が民主主義の根本と思いますが、日本はながらく今に至るまで、大事なことは政治家(お上)が決め、国民市民はそれについていくという、国民市民の意志が低位にあるコンセンサスに立っている様相ではないかと感じますし、それは中央も地方も、政治家自身が自己保身に役立つように、あるいは社会の様々な組織がその自己保存のために、その状況を利用してきた側面があるのではないかと思うのです。

 

そうなってしまっている理由が、長く続いた武家社会の影響であるのか、政治闘争の激しい歴史を持つ大陸から地理的に離れた列島風土がそうさせるのか、あるいは儒教仏教等の影響なのか…、司馬遼太郎氏は、どうやら地理的なところに原因があるのだろうか…と述べていますが、これはどうにも分かりません。

 

しかし、その結果、多くの国民が生きづらさをかかえ、長時間労働に耐え、子供たちもいじめに耐え、その苦悩ゆえに自ら命を落とし、あるいは行政に声をあげても社会がそれを救うことが出来ず落命してしまう、あまりに悲劇的な国民軽視の状況を改善出来ないでいることは、事実として私たちは直面していて、その解決はまさに、私たち自身に最優先に課せられた宿題だと思うのです。

 

私たち自身が立ち上がるという、その意味合いの片隅の、ほんのわずかな小さな力としてでも、私も力となってその改善に立ち向かいたいというのが私の思いであり、私にできることの全力を尽くして、一人一人の人生を尊重できる政治と行政をつくっていきたいと思う次第です。

 

ベルギーではこの1月、中高生が週に一度学校を休んで、温暖化対策の転換を訴えるデモを行っているそうです。131日に各地3万人以上が参加し、大人たちは若者の社会参加を温かく見守っている、と報道記事にありました。

 

社会改善のために声を上げることは、実に誇るべきことだと思います。

 

最後に再び、司馬遼太郎「歴史と視点」に戻りまして、

 

“日本の戦車兵は絶望というより、日本人くさい諦観の壁の中にいた。戦時の戦略外交ができるだけの政治家をもっておらず、かといって戦争をやめるだけの勇気のある政治家もおらず、戦車の数はわずかしかなく、それも型がずいぶん遅れていて、その型の生産さえストップしていた。むろん戦えば必ず負けるということは、どの戦車兵も知っていた。”

 

“ところが、私にとっていまでもふしぎにおもうことは、じぶんが乗っている兵器の頼りなさについて不平をこぼした戦車兵というものに出遭ったことがなかったということである。…「こんな戦車で戦えるか」と、口に出していう者をついぞ見なかったというのは、あれはどういうわけであろう。”

 

こんな戦車で戦えるか!といったところで、こんな政治じゃ何も変わらない…というあまりに理不尽きわまる諦観を、国民に二度と味あわせてはならないということが、戦後日本政治の最大の責務と思います。

 

こんな長時間労働、こんな賃金、こんな学校、こんな理不尽な社会で生きていけるか!と、口に出していうこと。

それが、民主主義のタネ、だと思うのです。

 

今日は午前、久保町の鎮守様にお参り。

まだまだ桜の花はつぼみに眠っています。

久保町一帯の鎮守様。
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