おぎわら隆宏
 
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哲学なき政治の弊害

政治に哲学がなければ、社会はただ強者のワンサイドゲームに終わってしまいます。本来は、そうならないように政治があってほしいと思いますが、弱者に寄り添う政治はなかなか主流に見えてこず、強者のための政治、強者になろうとする政治、強者に倣い従う政治が席巻してしまって、弱者敗者は後回しの「哲学なき政治」が社会の減衰に拍車をかけていると憂いております。

 

ここで、哲学とはなんだ?ということになろうかと思いますが、私なりのこれまでの噛み砕きの印象となり恐縮ではありますが、哲学というのは、「安らぎの言葉」ではないかと思っています。

安らぎある人生のために必要なことが、欲望や怒りを抑える自己抑制だったり、真実を見極める冷静さであったり、他人との円滑な交わりのための礼儀であったり、

これらをヴィトゲンシュタインのように論理的に語る、あるいはニーチェのように情熱的に語る、あるいはアランのように随筆的に語るなど様式は様々にせよ、いろんな哲学者が「幸せな人生を生きるために」言葉を編み出し続けてきたのが哲学ではないかと思います。

 

政治はよく「選挙に勝たなければ意味がない」とか、「理想と現実は違う」などの言葉が飛び交うことがありますが、これらの言葉こそ哲学を失った政治の捉え方と言うべきと思います。

現実の問題点を解決するためには理想をよく知り、理想に向かおうという意志がなければなりません。現実の枠内で事を済ませていれば、いつまで経っても現実は変わりません。

また、たとえ選挙に負けても敗者に投票した有権者の意志には意味があります。勝てば官軍との態度はあってはならず、勝者は敗者を尊重してこそ初めて本来の勝者と呼ばれるにふさわしい存在になると思います。

力の論理によって、理不尽な環境に弱者敗者を陥れるのは、およそ民主主義がめざす姿とは言えません。

 

国民市民が幸せな人生を生きるために必要なことを政治は何より優先してやり抜くべきですが、勝った負けたの政争が主目的な政治活動は、勝つために手段を選ばなくなり、国民市民の幸せよりも、政争に勝つために、国民をだましてでも選挙に勝つ行動を優先してしまうようになります。

 

これが哲学なき政治の弊害であり、日本社会はその弊害の真っ只中にあり、政治とカネ、既得権益、利権、不正がとめどなく表出する原因であると思います。

若者たちが、その純粋なエネルギーを政治にぶつけて、この現状を打破していく未来を夢に描きながら、若者たちに届くような活動をどのようにしようかと日々悩みながら、少しずつでも心に思うところを何かしら言葉にしていこうと思うのです。

 

私の淡い夢のひとつに、「ブーゲンビリアの咲く家に住む」というのがあるのですが、最近その規模を小さくして夢をかなえました。

 

小さな鉢植えにがんばって赤い葉をつけてくれていますが、8月の終りごろにはいったん赤い葉はぜんぶ落ちてしまっておりました。見事に再生してくれました。命のありがたさを感じます。

玄関先のブーゲンビリア

 

 

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